なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

愚かな人間の矜持は天才の足を引っ張ることでしかない話

 人が賢いとか愚かとか、そういうことを断じる文言には反発を感じてしまう。
 それは、人は人の全てを見ることができないことを忘れた言葉だからだ。
 私は、一見愚かに見える人でも、私には見えないところにその人の尊厳が隠れていることを信じている。
 もちろん、目に見える賢さもまた尊い。
 だが、目に見えないものをないと思い込み、他人の全てを判ったかのように振る舞うことは、その一面において愚かだ。その人には尊敬すべきところがあるとわかっていても、そう感じてしまう。
 しかし、愚かだと感じる自分は賢者なのか?と問われると断じて否である。そもそも、賢いとか愚かとかそういう指標を『感じている』時点で愚かと言わざるを得ない。
 ただ同時に、本当に賢いということを理解していて人を断ずることの出来る天才がいるであろうこともまた否定しない。
 だが、その天才にもやはり愚かな人間なりの反感を覚えるだろう。
 私は天才の足を醜く引っ張る側の人間である。

壊滅的につまらなかった中学英語

 

togetter.com

 を読んで、中学時代の英語の授業のことを思い出した。
 うちの中学は割と荒れている公立で、授業も崩壊気味だった。先生が荒れている生徒の指導に行ったっきり、授業が始まっても帰ってこなくて予告もなく自習になることはざらにあった。
 そうした授業の中で、中学になってから初めて出会う教科が英語だ。私は何を習うのだろうと割と緊張していた。
 英語の授業は教科書をほとんど使わず、先生お手製のプリントのみを使う授業だった。そのプリントが穴埋め式で、その答えを今でも覚えている。
 一枚のプリントに質問は3問、3つの文章がありそれぞれに1つの空欄がある。計3つの空欄があってその答えはなんなのか?全て、 "a" だった。ワケがわからなかった。
 そもそも、何を訊かれているのかわからない。問題文は穴埋めせよとしか書いてないし、なぜそこに "a" が入るのかの説明もない。先生は、ここの空欄には "a" が入ります、としか言わなかった。
 全てがこの授業のせいとは言わないが、他に塾に通ったりしていなかった私は、瞬く間に英語に苦手意識を持つようになり、実力テストを受けても英語の成績は悪かった。
 当時はなんでこんな意味のわからないプリントをやらされているのか、全く分からなかった。でも、今では少しだけわかる。授業中に教室から抜け出して帰ってこない生徒を少しでも出さないための工夫だったのだ。
 小学校時代の積み重ねがある他の教科はまだいいが、中学から始まる英語でつまづく子供を出さないために、極限に近いところまで『簡単』にした授業が、教科書は使わず、同じ答えだけを埋めれば正解になるプリントだったのだろう。
 だが、これは『簡単』であることを履き違えた授業だったと判断せざるを得ない。簡単であるというのは、理解までの道のりが楽であるというものだと私は考える。けれども私が受けた授業は、理解させることを放棄し、単に空欄があったらとりあえず "a" を入れることだけを教える授業だった。
 テストでは、空欄であるよりはとりあえず "a" でも入っていた方が正答する可能性は上がる。だからこの方針になることは理解できなくもない。
 でもやはり、『理解させること』を放棄した授業は良くなかったよなぁ、と思う。
 しかしながら、私の通った中学校の荒れようを思い出すに、きっと私が気づかなかった現実と直面した結果のあの授業だったのだ。できる子は、やる気のある奴は、塾に行かせるなどして家で面倒を見てくれ、それがあの学校の先生方の本音だったのではないか?そう思えてならない。

時間は絶望より強い

「神がいないこの世で、奇跡など決して起こらない。だが奇跡が起こらないことなど絶望ではない。奇跡の不備を、誰もが知っているというのに、それでも生きていなければならない。それが絶望だ」
−−ライアン・キルマークド(我が絶望つつめ緑)

 希望がない世界で、『それでも生きていなければならない』、それが絶望なのだという話。
 しかし、今の私はこの言葉の中に福音のようなものを見つけることができる。
「時間は絶望より強い」
 これはサンプル数1の私個人の実感でしかない。だが、このレンズを通して先ほどの言葉を見てみると、希望の芽が見つかる。
 生きていなければならないというのは、時間が経つのを待っていなければならないということだ。
 でも、この時間という奴は強力な力だ。あらゆる栄華を砂にしてきた実績がある。
 そして同時に、無差別な力だ。絶望にも分け隔てなく襲いかかり、これもどこかへ追いやってしまう。
 生きていなければならないことそのものが絶望であるが、けれども生きていれば時間が過ぎる。その時間は、やがて絶望をどこかへ押し流してしまうのだから、生きていることは希望につながるのだと思う。
 時間は、絶望を少しずつ削り取っていく。その絶望が自覚できるほどの量削られるのは、絶望を抱く人が死ぬまでには間に合わないかもしれない。けれども、間に合うかもしれない。そして、死ねないことが絶望ならば、間に合う方に賭けてもいいんじゃないかな?などと思うのだ。
 もし、間に合う方に賭けたとして、そのコインが見えるのならば。それこそが時間が削り取った絶望の小さな隙間に輝く希望なのだ。