目的のない、私のブログ

 このブログは、目的のない、私のブログである。つまり、想定読者が存在しない。

 文章を書くときは、読者のことを考えるというのが第一であるが、想定読者が存在しないのだから考えようがない。この文章もそうだ。

 では誰のために文章を書いているのかというと、私のためである。自分で自分を整理するための文章を書いている。それをショーウィンドウに並べて楽しむのだ。そしてそのショーウィンドウが誰かに注目されないか、ドキドキする。

 このショーウィンドウの存在が、紙の日記ではなくインターネット上のブログであることの最大の意義である。誰かが見てくれるということが、つまり読者の存在が、ブログをブログたらしめている。

 けれども最初に言った通り、このブログには想定読者が存在しない。しかしながら、私は本当に誰も読まない紙の日記にこうした文章を書くかというと、断じて否である。誰かに見られているという意識が文章を変質させているのだ。

 これは、卵が先か鶏が先かという問題や、シュレディンガーの猫を連想させる。

 まぁそんなに難しく考えなくても、このインターネットの片隅に、誰かに見られるつもりで襟を張った、でも誰に見せるつもりかわからないてんでバラバラな文章を飾るためのショーウィンドウを持てることは、なんだか幸せなことのように思う。

 誰かが足を止めてくれないか、そんなことをワクワクしながら待つ気持ちは、まるで膨らみすぎたスポンジケーキのようにすぐにペタンコになってしまうけれど、焼きたての甘い香りが忘れられないから、また何かを文章にするのだ。

エンジェル・ハウリング  私解釈

 このエントリは、秋田禎信関連 Advent Calendar 2016 - Adventarの21日の記事になります。

 この文章では、精霊アマワは何者であったのかということを中心にして、エンジェル・ハウリングの諸々を解釈していきたいと思います。
 と思ったのですが、文筆力的に難しいので、私がエンジェル・ハウリングから読み取ったごく一面的な解釈を独善的に垂れ流す文章になります。乱文申し訳ないです。

 

硝化とは?

 アマワが何をしようとしていたのかを考える手がかりが、硝化という現象です。硝化とは精霊になることであり、精霊は心を持ちません。つまり、心の不在が証明されたものは精霊になるのです。
 アマワはすべてを奪っていく、とベスポルトは述べています。そしてアマワに奪われたものは硝化してしまいます。帝都が硝化したのがそれです。
 これらを総合して考えると、アマワは心の不在が証明されたものをすべて奪い、硝化させるという能力を持ちます。

 

アマワの目的はなんだったのか?

 これは単純なものを想像しています。アマワは存在したかったのです。この目的のために、アマワは契約者となります。
 アマワは、クライマックスで未来精霊アマワと自らの正体を晒します。この時に、私はまだ存在しないと発言しています。では、アマワはどうしたら存在できるのか?私はこれを、アマワがすべてを奪った時だと考えます。
 アマワがすべてを奪った時、というのはどのような状態でしょう?それはすべてのものに心の不在が証明された時です。アマワは契約者であり心の実在を証明するためにある、と自称しますが、アマワの本当の目的は心の実在を証明できなかったことにより世界のすべてを奪うことなのではないかと思うのです。
 このことを考えると、ベスポルトがアマワのことを、大切なものを侮蔑する存在と評する意味がわかります。アマワは人が心の実在を証明できないことを想定しながらこの契約に臨んだのです。それは、人の心はないものだと決めつけてかかる、とても侮蔑的な態度に他ありません。
 そしてベスポルトは、そんなアマワを否定するため、心の実在を証明するために契約者になります。だから彼は、人がアマワに勝てるのかどうかを疑問に思い、「我々は、お前を失望させることができるか?」と質問するのです。アマワを失望させること=心の実在を証明すること、であり、なぜ契約者アマワが心の実在を証明させられて失望するのかというと、アマワは本当は心の実在が証明されないことを望んでいるからなのです。
 そして、心の実在が証明されなかった時、不確かなものであるはずの未来は心による揺らぎをなくして確定し、未来精霊アマワは実存できるようになります。

 

アマワは失望したのか

 これは明確に是です。アマワはミズーとフリウに失望します。ミズー編でアマワがミズーに失望しているのは描写がわかりやすいですが、フリウ編でもフリウが「いつか来るなら来ればいい」「その時にまた失望するだけ」と述べています。
 ミズーとフリウはどうやってアマワを失望させたのでしょう?二人は、アマワにとって『契約の価値がない者』になったため、アマワを失望させます。この契約の価値とはどういう意味なのか?繰り返しますが、アマワは実際には心の実在を証明されたくなかった、そこから考えると、心の実在を証明しようとしながらもできない人物こそ、アマワにとって契約の価値があるものだったのではないでしょうか?
 そして、ミズーとフリウは信じることにより、アマワには奪えないものがあるということを証明して、アマワを失望させたのです。

 

アマワはなぜ心を奪えないのか

 ここが恐らく、エンジェル・ハウリングという物語の核心なのではないかと思います。心とはどういうものなのかということがアマワがなぜ心を奪えないのかという理由になるからです。
 これはとても難しい問題です。しかし、私なりの考えを述べさせていただくと、心は信じることでしか届かない領域にあるからなのではと思います。
 ベスポルトの賢者と愚者の話を思い出すと、賢者とは全てを疑うものとあります。同時に、全てを疑う者は全てのものに答えがあると信じる者でもあります。これは、イムァシア人であり、アイネストであり、そして精霊アマワ自身です。一方の愚者とは全てを信じる者とあります。確証がないものも信じることができるのが愚者であり、答えがないことを知っている者でもあるのでは?と思うのです。そして、答えが、確証がなくとも信じられる者は、ミズーでありフリウです。
 ここから考えるに、心とは、存在しないと知りながらも信じることでしか見つけられないもの、なのではないでしょうか?
 アマワは常に答えを求めています。常に疑っているから、信じることでしか見つけられない心はアマワの手に届かないものであり、アマワには奪えないものなのではないのか?と私は思うのです。

 

最後に、エンジェル・ハウリングと私について

 長々と語ってきましたが、もう少しだけお付き合いください。
 私は、とてもとても疑い深い人間でした。10年来の友人の友情ですら疑い、人に好意を寄せられてもそれを信じることができず、かえって人を傷つけるような人間でした。
 そんな私が信じることをテーマにしたこの物語に惹かれるのは必然だったのでしょう。
 思うに、信じることは愛することであり、愛されることです。言葉が伝わると信じることが愛することで、言葉を信じて受け取ることが愛されることだと、この物語を読んでから思うようになりました。
 そして、拙いながらもそれを実践しようとし、今のところ成功しているように思います。
 私は今、誇りを持って幸せであると言える、とても幸せな状態にあります。そうした私になれたのは、間違いなくこの物語に散りばめられた愛の言葉を信じて受け取ったからです。
 物語は人生を追体験できる素晴らしさを持っています。私はこの物語により、愛するミズーと、愛されたフリウ、両方を体験して、信じることができる私になれたのです。
 著者である秋田禎信氏には、感謝の言葉しかありません。ありがとうございます。

Twitter の過去履歴をカレンダー形式で閲覧できるアプリ

Twitter の過去履歴をカレンダー形式で閲覧できるアプリを作りました。

https://twical.herokuapp.com/

名前は暫定的に、略称 twical 名称 TweetsInCalender です。

このアプリは自分のツイートとRTを日付け別に表示します。

各個人のツイートのIDはデータベースに保存しますが、ツイートの中身は保存しないように出来ています。

また、他人のツイートをカレンダー形式で閲覧することも出来ません。

今のところ、自分のツイート履歴だけ見れるアプリです。

 

今出先なので、帰ったらもう少し詳しい解説を付け加えます。

Gmailに送ったはずのメールがスパイサイトに送られてしまう危険性

 先日、私のGmailのアドレスにメールが送られたはずだが届かなかったという出来事があった。送信者の方に確認をしてみると、メールアドレスを間違えた時に返信されてくるエラーメールが届かなかったので、ちゃんと送られているものだと思っていた、とのこと。なので、送信したメールを確認させていただいたところ、メールアドレスの@マークの後ろのgmail.comの部分から、エルが抜けていた。なので、結局はメールアドレスを間違えていたから届かなかったという話だったのだが、気になることが一つ。

 なぜ、メールアドレスを間違えていたのにエラーメールが返信されなかったのか?という点だ。

 可能性としては、間違いだったドメイン(メールアドレスの@マークより後ろの部分のこと)が存在するかもしれないということだ。

 なので、物は試しにウェブブラウザから件のドメインにアクセスしてみたところ、アンチウイルスソフトが作動し、スパイサイトだと判定されてしまった。これで悪意を持った人間がそのドメインの持ち主だったということがわかった。つまり、最初に送られたメールは悪意を持った人間に渡ってしまっていると考えるのが順当である。

 試してはいないが、他にもgmailの打ち間違いのドメインが悪意を持った人間に確保されているだろう。gmailの他に、yahooのものもあるかもしれない。

 流出したら困るメールをgmailドメインのアドレスで直接やりとりをしている人は少ないかもしれないが、よくあるフリーメールに重要なメールを送る時は、@マークの前だけではなく、後ろも間違えていないかよくよく確認する必要がある。

 皆様もどうかご注意を。

素人が絵を20年以上描いてきて

 私は絵の素人である。金銭を得て絵を描いている人間ではない、という意味だ。ただ、絵を描くという趣味は結構長く続けていて、もうかれこれ20年以上になる。小学校中学年の頃からの付き合いだ。
 そんな中で得たものや考えたものについて書き記したいが、とりあえずまとめだけ先に書く。
 まず、絵を描くのは楽しい。次に、技術をある程度得ないと分からない領域がある。そして、成長は裏切らない、ということだ。
 では、自分がどのように絵を描いてきたのか簡単に紹介しようと思う。

 まず、絵を描き始めたきっかけを。
 小学三年生の時、クラスのみんなでセーラームーンの絵を描いてみた。そうしたら、友達に上手だと言ってもらえた。その一言が嬉しくて、絵を描き始めたのだ。従姉妹にも絵を見せたら、漫画家になれるんじゃない?などと言われ、ますますその気になってしまい、この頃は漫画家になる気でいた。小学校高学年になってから入ったイラストクラブでも、自分より上手い奴はいないと天狗になっており、なんていうか痛い子だった。この頃は気合を入れて描く絵というのは、雑誌に載っているプロの絵の模写ばかりだった。
 そして中学校に進学し、自分よりも上手い同級生と出会って愕然とする。あの天狗になっていた私が明らかに負けたと思う絵なのだから、その同級生と私の間にはさぞ大きな溝があったことだろう。しかしそこで絵を止めたりはせず、もっと上手くなるぞと思って美術部という名の実質マンガ部に入り、そこで先輩方からマンガ用原稿用紙やGペンの使い方を教えてもらった。そして模写だけでなく、自分でポーズを考えたりして絵を描くことができるようになった。自分で構図を考えて絵を描くということができるようになっただけで、自分は物凄く上手くなった気がしたものだ。
 続いて高校。この時、私の絵にとってのエポックが訪れる。それは角川スニーカー文庫からでていたライトノベルラグナロクの表紙を見ている時に、ふと気がついたことだった。表紙には主人公のリロイというキャラクターが描かれているのだが、その肩。その肩は、服の中に肩パッドが入っていると気がついたのだ。それに気がついた瞬間、絵は立体からできてるものなのか、と衝撃が走った。表現が大げさだが、しかしこの衝撃を書き表すにはまだ足りない。それから私は立体を考えて描く、ということを覚えたのだ。それにデジタルでの色ぬりを始めたのもこの頃だ。高校1年生の頃から続けて貯めたバイト代で、あの5色のiMac、スキャナー兼プリンター、Photoshop5.5J学生版、Wacomのファーボの一番小さな奴を揃えた。正直今思うと、よくここまでやったな私感がある。総額いくらかかったのかとかは覚えていない。

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 そして大学に入り自分のウェブサイトを作り、イラストを公開していた。サイトはMovableTypeを使って構築したので運用更新についてはだいぶ楽ができた。この頃から今まで、あまり大きな出来事はない。ただ、この頃から何度も何度も、『私はもうこれ以上上手くならない』という思いに苛まれた。それは私にとって絶望にも似たような思いだった。プロになるのを諦めたのもこの頃だ。だが、その度に絵を描かなくなったのに、気がつけばまた鉛筆を取っている、そして少しだけ以前より成長している、ということを繰り返してきた。最近はそうやってスランプに陥っても、ちゃんと抜け出せるし少しでも成長できるということを学んだので、そもそも絵について落ち込むことがあまりなくなった。それが地味な変化だろうか。

 さて、思ったよりも長くなったがこれが私の絵を描く歴の概略だ。
 こうして絵を描いてきて思ったことの中に、絵が上手くならないとわからない上手さが存在した、ということがある。これが、冒頭で書いた技術をある程度得ないとわからない領域がある、という話だ。低レベルな例で恐縮だが、頭がボサボサしている髪型と頭のラインがきっちりと出ている髪型とを比べて、一番絵が下手だった頃は髪がボサボサしている方がうまく見えて、頭のラインがきっちりと出ている方はボサボサの髪が描けない人の逃げに思えた。それから少しうまくなると、頭のラインがきっちりと出ている方がちゃんと頭の形をわかっている描き方で、ボサボサしている方は頭の形がわからないからの逃げに見えた。けれどもさらに上手くなってみると、両者の髪型は等価に見える。結局、どちらも上手く描くには頭の形をわかっていなければならない。
 技術を手に入れると、と言うには大げさかもしれないが、しかし私はたったこれだけのことが自分がある程度上手くなってみないとわからなかった、と言う話である。だが、これと同じようなことは他の領域でもあるものなのではないだろうかと推測している。
 そして、絵はちゃんと上手くなる、と言うのも20年絵を描いてきて思ったことの一つだ。これは、何度ももう自分の実力は天井だと思っても、それでも少しづつは前に進んでこられた経験に支えられている。絵が劇的に上手くなる時期は最初の10年弱で終わってしまったかもしれないけれど、それでもジリジリと上手くなってきている、少なくともそう自己評価できるのは嬉しい。
 最後に、絵を描くのは楽しい。20年続けてもちっとも飽きない。ここは仕事として絵を描いている方にはまた別の意見もあるだろうが、趣味として描く範囲だとちっとも飽きない。絵を描くことの何が楽しいのかというと、構図だったり、色だったり、そういうものを考えながら描いて、『これだ!』と思えるものに出逢える瞬間が楽しいのだ。

 20年以上絵を描いてきて、辛かったこともたくさんあったけど、それでもたくさんのものをもらってきた。いつまで絵を描き続けるのかわからないけど、ずっとこのまま一緒に行けたらいいな、なんて思っている。

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*1: 上記がデジタル塗りを始めたばかりの頃の作だ。タイムスタンプを信じるならば、2000年の絵である。懐かしい。

*2:こちら最新作。今の所はお気に入りである。

自画自賛、文字通り

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 絵を描いている時は、文字通り自画自賛しながら描いているわけです。

 自画自賛に至る前は、なんか違う、なんか違うと思いながらあっちこっちに行ったり来たりしているわけですが、この先に進んでいい、と決まったらほぼ一直線、そして上手くいったらこの上なく楽しく、自画自賛します。いや、自画自賛できる状態にまで絵を持っていけたから楽しいのか。

 とにかく、この絵もそんな自画自賛しながら描いている絵です。まだラフの段階ですが、色が上手くいっているように見えて楽しい。

 このまま終わりまで描ければいいなぁ、と願っています。

だいたいいつも

 自分の絵を振り返ってみると、だいたいいつも、より新しいものの方が気に入っていたりする。

 それはとても良い傾向だと思っている。

 というわけで(?)、細々とやっているイラストサイトを更新しました。ご覧になっていただければ幸いです。

yoshinami8th.net