なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

宗教とか自己啓発セミナーとか

 最近になって自分が書いているエントリはそんな感じのものが多いなー、と自分でも思います。なんていうか、ダメだった私が〇〇したらいい感じになりました、みたいな。でもまぁ、実感として事実なので、そういうのに食傷している方には申し訳ないです。

 宗教とか自己啓発セミナーとか、そういうものが批判されるのには、まず『弱き人を食い物にしている』という主催者側への批判と、『食い物にされている弱さが悪い』という信者への批判があると思いますし、私もその意見に概ね同意するものでありました。

 けれども辛かった時には、自己啓発ですアウトー!な感じの本とかも読んでいましたし、キリスト教徒になることを検討しはじめたこともありました。それでもギリギリ気持ちが上向きになって、そういうところの門を叩くには至らなかったのですが、しかしそれはたまたまそうならなかったというだけで、何か一つずれていたらその門の向こうにいたのかもしれないのです。

 そんな私が何とかサバイブして手に入れた価値観が、宗教とか自己啓発セミナーとかに寄ったものになっているのは皮肉なのか必然なのか。

 でも、どちらかといったら必然である方がいいなぁと思うのです。人々が心の辛さを乗り越えて得られる叡智が共通のものだとしたら、それは希望のように思えるからです。

自分は醜いと言い訳をしたかった

 私はちょっと前まで、自分は醜いと思っていた。それは外見の話だけでなく、心の器量も含めてだ。

 色々とあってそのような考え方から逃げることができたのだけれど、なぜ自分を醜いと思っていたのか考えてみたら、意外な答えが見えてきた。自分は醜いということを言い訳に使っていたのだ。

 自分は醜いから人生うまくいかないのだとか、自分の醜さに気づいている分私はマシな人間だとか、とにかく醜い自分というのを勝手な言い訳に使っていた。

 じゃあ自分の美しさに気がついたからそう思わなくなったのか?と言うと、そうではない。自分を批判的に評価するのを止めただけだ。

 それだけだから、私は実際のところ醜い人間なのかもしれない。けれども、そう思わなくなっただけで、醜さを言い訳にしていた頃よりもずっと心が軽くなった。言い訳って普通自分の心を(どんな手段ででも)守るためのものなのに。

 結局、自己承認が出来るようになったというところにこの話は落ち着くのかもしれない。けれども結果だけ見ると、自分を醜いと思うことには何のメリットもなかった。

 そして今となっては、私に対して私は醜いという意識を植え付けたなにものかへの恨みも、すっかり消えてしまったのである。

感情メタ禁止。

 最近自分に課した決まり事として、感情メタ禁止というものがある。

 今自分はこう感じたけれども、それには実は別の意味があってそちらのほうが本音なのでは?と考えることを禁止するのだ。

 例えば、私は今喜んでいるけれどそれは他人に対する優越感から生まれた感情だから私は醜い、などと考えることを止める。

 感情メタというのは怖い。自分が感じたことに対して常に批判的な自分を心の中に飼うということなのだから。自分を否定しかしてこない他人と接するのはとてもストレスだが、そういう他人を心の中に持つのはもっとストレスだ。普通の他人に否定されるならその人から逃げればいい話だけれど、心の中にそれがいると逃げることが出来ない。

 だから、私は今喜んでいるのだという感情を素直に受け入れて、それを評価しないように心がけるようにした。

 そうすると、今まで持っていてずっと悩みの種だった、自分を否定する過剰な自意識から逃げ出すことが出来たように思う。