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突然ですが、電子書籍派です。

 突然ですが、私は電子書籍派です。私が感じている電子書籍のメリットは以下の通りになります。

  1. 思い立った時にすぐ買えて、すぐ読める
  2. かさばらない
  3. ↑なので、たくさん買っても捨てなくていい
  4. 検索すればすぐに本が見つかる(ダンボールの奥底だから読み返すの辛いとかない)

 特に大きいのは、1と3です。

 まず1ですが、ネットでお勧めされた本が気になって読みたい時、そのままネット経由で注文してダウンロードしたらすぐ読める、というのは本へリーチするハードルが下がるので非常にいいです。

 次に3。本を置く場所が取れずに泣く泣く処分した経験が何度もあります。でも電子書籍なら、かさばらないので捨てなくてもいいんです。これでせっかく買った本がいつまでも読める!

 まぁ、3はサービス終了したらどうなるの?と怪しい面もありますが、この辺りのメリットが本当に大きいので私は電子書籍派です。

電子書籍は作家さんのためにならない?

 現状、電子書籍が売れても作家さんのためにはならない、というのが通説のようです。売り上げの面でも、作品生命の面でも。

 これは電子書籍派としては心情的に非常に辛い。私はフェアにお金を支払っているはずなのに、それが作家さんを支えないというのは本当になぜなのか理解できません。

 でも、これはきっと過渡期の歪みなのだと思っています。電子書籍という新しい仕組みと紙の本という古くからの仕組みを結びつけるためのノウハウが、まだ世界中のどこにもないのでしょう。

 私はこの歪みが解消され、電子書籍を買っても作家さんを支える仕組みが生まれることを熱望しています。

だからこそ、電子書籍派です。

 上記のノウハウを生むには、電子書籍での売り上げも紙の本に負けないくらいになることが必要なのだと思います。

 もし電子書籍がマイナなままであり続けたら、出版社側は電子書籍に関するノウハウの蓄積を後回しにし続けるでしょう。

 そうではなく、電子書籍での売り上げを出版社側にも作家さんにも前向きにとらえてほしいと思うのです。

 なぜなら、お金を払ってでもこの本を読みたいと思った気持ちは、電子書籍でも紙の本でも変わらないからです。

 そうした未来がなるべく早く近づくように、今後も電子書籍を活用していきたいと思っています。

覚えていてもらう奇跡

『本当にすべての望みを失って初めて、人に最後に残る望みが何かわかった』
「……男は何を望んだのだ……?」
「アフダルよ、それは伝えるということである」

堤抄子 エスペリダス・オード3巻より

 

僕を覚えていて 指で文字をなぞっては

大声で泣いた夕映

石川智晶 Vermillionより

 

 この二つの言葉は、私の中にしっかりと残っている言葉です。

 この二つを合わせて考えてみると、人に残る最後の望みは、自分のことを伝え、そして覚えていてもらうことなのかなぁと思うのです。

 ウェブが発展して、誰しもが自分のことを発信できる世の中になりました。その一方で、覚えていてもらうのは難しいように思います。

 けれども、知らない誰かがどこかで私が書いたものを目にして覚えてくれている、そんな小さな奇跡を信じてもいい時代になりました。

 ウェブ上に何かを発信している人たちは、きっとそんな奇跡を信じているのだと思います。

 そして、そんな奇跡を起こすために、誰かを覚えておくために、ネットサーフィンをするのもきっと悪くはないのでしょう。

宗教とか自己啓発セミナーとか

 最近になって自分が書いているエントリはそんな感じのものが多いなー、と自分でも思います。なんていうか、ダメだった私が〇〇したらいい感じになりました、みたいな。でもまぁ、実感として事実なので、そういうのに食傷している方には申し訳ないです。

 宗教とか自己啓発セミナーとか、そういうものが批判されるのには、まず『弱き人を食い物にしている』という主催者側への批判と、『食い物にされている弱さが悪い』という信者への批判があると思いますし、私もその意見に概ね同意するものでありました。

 けれども辛かった時には、自己啓発ですアウトー!な感じの本とかも読んでいましたし、キリスト教徒になることを検討しはじめたこともありました。それでもギリギリ気持ちが上向きになって、そういうところの門を叩くには至らなかったのですが、しかしそれはたまたまそうならなかったというだけで、何か一つずれていたらその門の向こうにいたのかもしれないのです。

 そんな私が何とかサバイブして手に入れた価値観が、宗教とか自己啓発セミナーとかに寄ったものになっているのは皮肉なのか必然なのか。

 でも、どちらかといったら必然である方がいいなぁと思うのです。人々が心の辛さを乗り越えて得られる叡智が共通のものだとしたら、それは希望のように思えるからです。

自分は醜いと言い訳をしたかった

 私はちょっと前まで、自分は醜いと思っていた。それは外見の話だけでなく、心の器量も含めてだ。

 色々とあってそのような考え方から逃げることができたのだけれど、なぜ自分を醜いと思っていたのか考えてみたら、意外な答えが見えてきた。自分は醜いということを言い訳に使っていたのだ。

 自分は醜いから人生うまくいかないのだとか、自分の醜さに気づいている分私はマシな人間だとか、とにかく醜い自分というのを勝手な言い訳に使っていた。

 じゃあ自分の美しさに気がついたからそう思わなくなったのか?と言うと、そうではない。自分を批判的に評価するのを止めただけだ。

 それだけだから、私は実際のところ醜い人間なのかもしれない。けれども、そう思わなくなっただけで、醜さを言い訳にしていた頃よりもずっと心が軽くなった。言い訳って普通自分の心を(どんな手段ででも)守るためのものなのに。

 結局、自己承認が出来るようになったというところにこの話は落ち着くのかもしれない。けれども結果だけ見ると、自分を醜いと思うことには何のメリットもなかった。

 そして今となっては、私に対して私は醜いという意識を植え付けたなにものかへの恨みも、すっかり消えてしまったのである。

感情メタ禁止。

 最近自分に課した決まり事として、感情メタ禁止というものがある。

 今自分はこう感じたけれども、それには実は別の意味があってそちらのほうが本音なのでは?と考えることを禁止するのだ。

 例えば、私は今喜んでいるけれどそれは他人に対する優越感から生まれた感情だから私は醜い、などと考えることを止める。

 感情メタというのは怖い。自分が感じたことに対して常に批判的な自分を心の中に飼うということなのだから。自分を否定しかしてこない他人と接するのはとてもストレスだが、そういう他人を心の中に持つのはもっとストレスだ。普通の他人に否定されるならその人から逃げればいい話だけれど、心の中にそれがいると逃げることが出来ない。

 だから、私は今喜んでいるのだという感情を素直に受け入れて、それを評価しないように心がけるようにした。

 そうすると、今まで持っていてずっと悩みの種だった、自分を否定する過剰な自意識から逃げ出すことが出来たように思う。

自分の世界を作るもの

 自分の世界を作るものは何なのか、意識していないと間違えるものがあるよな、と時々思う。

 例えば、「賢い人は常に落ち着いて話す」という実感があるとして、それは真であると考える前に、自分は常に落ち着いて話す人を賢い人と認識してるのではないか?と考える必要がある。

 自分の世界というのは自分というフィルタを通してのみ形作られるもので、そのこと自体はとても尊い。だから、「賢い人は常に落ち着いて話す」という命題を真にする世界を作ってもいい。

 けれども、その命題を真たらしめているのは『事実』ではなく『認識』だということを間違えてはならないと思うのだ。

高いもんがいいもんの理論

 昔、『高いもんがいいもんの理論 叩き込まれて僕らは無敵』と歌ったのはMr.Childrenだった。そんなことを思い出した話である。

 今日、ケーキ屋さんで一人用のケーキを選んでいた。個人的にはフルーツに心が揺れていたので、色とりどりのフルーツが飾られたケーキを見比べてどれがいいか悩んでいた。だいたいどれも380円くらいの値段だった。

 けれどもそんな中、視界の隅に550円のケーキが目に入った。そのケーキは綺麗にデコレーションされた生クリームの上にシンプルにいちごが飾られたケーキで、それ以外のフルーツは見当たらなかった。

 けれども、こんなことを思ってしまった。380円のケーキにあれだけフルーツが使われているのだから、この550円のケーキには見えないところでもっとフルーツが使われているのかもしれない、と。

 そして結局、その550円のケーキを買ったのだ。

 結論を言うと、そのケーキにはいちご以外のフルーツは使われていなかった。

 なのになぜフルーツが多く飾られた380円のケーキより高かったのか?それを考えた時、生クリームが普通のケーキよりも濃厚に感じられた。

 きっと濃厚な生クリームを食べたい、という需要はあるのだろう。そしてこのケーキの価値は、おそらくそこだった。しかし、私が求めていたのはフルーツだったのだ。なのに私は値段でそこを見誤り、本当に食べたかったものが食べられなかった。

 このケーキは何も悪くない。悪かったのは、値段に眩んだ自分の目だ。

 今回はケーキだったから笑い話になるのかもしれない。けれども、値段だけで自分が求めるものがそこにあると判断するのは、勘違いも甚だしい。その値付けは、私のための値付けではないのだから。

 高いものは、多くの場合いいものなのだろう。けれどもそれが『自分にとって』いいものなのかどうかを判断できるのは、自分しかいない。

 そこで判断を誤らないように、普段から気をつけていきたい。