なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

例え話についての乱暴な話

 議論をするのに例え話をするのは有効ではない。しかし、物事を説明するのに例え話は有効。


 記憶が関連性と密接な関係を持っていることはよく知られている。そして理解もまた関連性と相関関係を持っている。より多くの事柄に関連性を持たせることが出来た物事はより記憶しやすくなり、その関連性が「正しい」関連性であればより理解が深まる。
 脳という世界により多くの紐を結び付けられたのならば、その記憶は落ちにくくなり、そうして結び付けられた紐たちは網を構成し、その網が密で正確であるほどしっかりとした記憶で深い理解である、という理解でいいと思う。記憶と理解について紐と網を関連付けてますよ、私。


 そして例え話とは、自分がその物事の記憶に結び付けている事柄をかませて説明すること。そうすることで説明を読む側は、その物事とともに関連性も一緒にインプットできるので自分で関連性の網を張る手間が省け、より物事を記憶しやすく、理解しやすくなる。
 もし仮に例えに使われた事柄自体を説明を読む側が知らなければ、その事柄に関連性の網を張ることは出来ないので例え話の有効性はものすごい勢いで下がる。
 そしてもうひとつ重要な点は、関連性はただの関連性であってその物事そのものではないのに理解に結びつけられてしまうため、その関連性がどの程度「正しい」関連性であるかどうかを判定するのは難しいということ。そのため、例え話をうまく使えば物事に対する理解をミスリードすることはとても簡単になる。


 議論の際に例え話が有効でないのは、ほとんどの議論は物事に対する理解の相違から派生していることによる。物事に対する理解の相違さえすり合わせれば、たいていの議題は解決するもの。議論のゴールは物事に対する理解を調整することと言ってもいい。
 その理解を調整する手段として例え話なんかをはじめたら、そりゃもう大変なことになる。直接議論すべき物事についての理解を調整すればいいものを、余計なレイヤをかませるためその調整はどんどん滑っていく。
 「議題となっている物事についてなのですが、この物事は例えるならば…。」「いや、その例えはおかしい。その例えの中でこうだとしたら、実際の物事について矛盾するじゃないか。むしろ私はこう理解している。例えると…。」
 例えはあくまで例えであって、物事そのものではないのに。こうした嫌な無限ループには、はまりたくないものです。