なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

秋田禎信氏についてつらつらと

 http://www.motsunabenohigan.jp/note/2008note/200809nt.htm
 この9月日記の28日目を読んだとき、私は思わず涙ぐみました。

本にするのは、やろうと思えば簡単だろうと思います。今でも普通に、角川書店さんとはお付き合いもありますし。企画として伝えれば良いだけです。
ただ、ひねりもなしにやるのは、それこそなんのための物語なんだろうか理由づけが思いつかなくて、目標のない物語は少し不幸だな、というのがわたしの感覚にはうっすらとあります。なので現状、よく分かりません。すみません……
ともあれ反響からすると、同じ要望を持っていただいている方というのは思いのほか多いのかなという印象だったので、ここに御礼かたがた、取り留めのない文ですが書かせていただきました。
最後にもう一度、ありがとうございます。
作品を愛していただけるのは、もちろん、そうした理由だのなんだのといったご託などどうでも良いくらい、この上なく幸福なことです。

 もうね、秋田禎信愛してるよと。
 目標のない物語は少し不幸だな、という感覚があるのは、秋田氏が物語に対してものすごく真摯に向き合っていることを示しているんじゃないかな?と思います。物語の中の出来事に対してももちろん、物語自身にも。
 そういえばまだ中学生だったと思うのですが、その頃にはぐれ旅の血涙を読んで、いまいち納得できないところがありました。オーフェンが魔術を使えなくなった理由です。
 人を殺した精神的ショックから、というのがその理由なのですが、それが当時中学生だった私にはよく分からなかったのです。その疑問が続いたまま背約者を読んでいって、「そうか、オーフェン今まで人を殺したことがなかったのか。だからショックだったんだ」程度にしか思えませんでした。
 他のライトノベルやマンガなどでは、主人公は強いのが当たり前で、その強さを表すために主人公が人を殺すのも当たり前のように思っていました。だからオーフェンのショックって何となく納得しても、表面上でしか分かっていませんでした。今も表面上でしか分かっていないと思います。私は人を殺したことはおろか、大切な人をなくしたこともないのですから。
 けれども、想像しか出来ないけれども、人一人が亡くなるっていうことはすごく大変なことで、亡くなった人にはもう明日という日は来なくて、ましてやそんな大変なことを覚悟もなしに人に強いてしまうことの怖さ、今なら少しは覗き込める気がします。
 話がかなりそれましたが、秋田氏は自分の物語の登場人物のことをものすごくよく理解しているんじゃないかな?と思います。作者だから当たり前、というレベルの話ではなくて、自分の物語の登場人物を、ちゃんと一人の人間として扱っているのではないかと思うのです。
 人間の一部分を切り取って誇張して、それしか心のないキャラクターも世の物語には沢山あふれています。もちろんそういうキャラクターの建て方とそれによって描かれる物語がつまらないわけではないです。むしろ今エンターテイメントとして受け入れられている物語はそういったものが普通でしょう。私もそうした作品を楽しんでいます。
 けれども秋田氏はギャグ以外では極力そういうことをしない。物語に描かないところまで登場人物のことをしっかりと一人の人間として扱っていると思うのです。
 そして、物語自身もものすごく大切にしているのではないかと思うのです。物語、この単語通り、物語は語りたいものがあるから描かれるものだと思います。秋田氏はそれをとてもよく自覚している作家の一人だと思います。
 秋田氏が語りたかったものは何なのか?
 それが読み手の私に対して、私が意識的に気付いたものであれ無意識でいるままのものであれ、私の心に届いたから私は秋田禎信氏の物語をこんなにも愛してやまないのでしょう。
 もう一度言うね。もうね、秋田禎信愛してるよと。