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エンジェル・ハウリングを読んで思ったこと

 エンハウを読んで思ったことがある。言葉とは愛だと。実際にはそうではないだろう。人を傷つける言葉というのは確かにあるし、そんなものは愛とは呼べない。だからこの直感を分析するのならば、愛とは言葉で伝えるものである、ということになるだろう。そして言葉というものを考えてみるとき、言葉は何かを伝えるものだと定義するとしたら、それは必ずしも文字や声だけで表されるものではないのだろう。ミズーの言葉が剣に託されたように。
 ミズーはエピローグで、フリウはクライマックスで、共に言葉を聞いたと言っている。それは二人が、二人に語りかけてくれた人々の愛を受け取ったという意味なのだろうと思っている。愛とは誰かに対して向けられる強烈な感情ではなく、自分の身の回りの人々の何気ない仕草や言葉に潜んでいるのだろう。そして自らも誰かに対して何かを伝えようとする、それ自体が愛情のある行為なのでは?と思うのだ。ただ先にも述べたように、それが人を傷つけるものの場合は例外だと思うが。
 人を傷つける言葉は本当に愛ではないのか?その点については、正直議論の余地が残っていると思う。良薬口に苦し、という言葉はある面の真実を突いていると思うし、愛情の反対は無関心であると思うからだ。それに、人を傷つける言葉がその人のためにならないのかと言うと、必ずしもそうとは言い切れないと思う。傷ついて初めて分かること、というのはある。けれども、単に暴力でしかない言葉というのもまたあると私は思っている。だから、言葉とは愛だと直感したが、やはりそうとは言い切れない、というのが私のスタンスだ。
 話はエンハウの感想から飛ぶ。心に届くのは、先に述べた仕草なども含めた言葉だけではないのか?人の心は言葉によって作られるのではないか?だから、心を生かすのも殺すのも言葉だけではないかと。そしてまた、言葉を生かすのも殺すのも心だけではないかと。
 私はミズーやフリウの姿から、言葉を受け取る姿勢を学んだと思う。それはどんな姿勢だ?と問われたら上手く説明できる自信は無いが、言葉を疑いながらも信じる、その矛盾の間に言葉を受け取る姿勢がある気がするのだ。では次。言葉を伝えるのにはどうしたらいいのか?これもまた、言葉が伝わると疑いながらも信じていればいいのではないか?言葉を生かすのも殺すのも心だ。自分の言葉を必要としてくれている心がきっとある、今は心に殺されてしまう言葉でも、いつかは伝わるかもしれない、そんなことを信じるだけでいいのでは?というより、それ以上はきっと支配欲にかられた別の何かになってしまうのでは?そんなことを思う。