見えないネット

 この正月は田舎の実家に帰っていた。実家にはネットがないが携帯のフルブラウザなどを使ってなるべくネットワークにぶら下がっていた。
 で、実家の方の友達と話をしていて思ったのだが、私が一番のネット中毒者だった。友達の中にはパソコンをとりあえず買ったけれどケータイで全て完結してしまってパソコンは結局ネットに繋いでいない人や、パソコンを買ってネットには繋いだけど、mixiニコニコ動画と買い物やゲームの攻略法などの調べものぐらいにしか使わない人などもいた。友達のパソコンを使わせてもらおうとしたときに、「インターネットソフトはIEじゃないけど大丈夫?」と聞かれたりもした。インターネットソフトってなんだ?と一瞬頭が空白になったが、Webブラウザのことだった。
 私なんかは高校時代にろくにネットをやったこともないのにインターネットはすごい!よし、インターネットについて勉強するぞ!と情報系大学へと進学を決め上京した。そしていろいろと先進的なサービスなどは一通り使ったりしているつもりだ。先進的な技術、と言えないところが情けないが。
 ネットすごい!と思っていたときの私の思考は以下のようなものであった。

 人類は情報の交換をして文明を発展させてきた。その情報の交換速度には距離という高い壁が立ちはだかっていたため、その速度を埋めるために物理的なアプローチが取られ、都市が生まれた。しかしインターネットはその距離という高い壁を壊すものだ。これはすごい!あと100年もすれば物理的な距離が情報伝達を阻害することは無くなり、人々の生活は全く新しいものへと生まれ変わるぞ!その黎明期に立ち会えた自分はなんて幸運なんだ!

 …、今思い返すとさすがに恥ずかしい。どんだけ夢見てんだよ、みたいな。100年も根拠なしじゃん、とか。
 今はネットは世界を変えるツールになるのではなく、人々の生活に飲み込まれるだけなのではないかと思っている。
 人々の生活に飲み込まれるだけ、というのは、ネットがユーザの生活を変えるほどの速度で情報を交換するツールとして使われるのが主流になるのではなく、人々が自分の日常生活の中で欲しいと思った情報を取ってくるだけのツールのままでいるのではないか?ということだ。両者の違いは加速度だ。ネットはユーザの情報処理速度を加速させることもできるが、多くの人々はそうした使い方をせず、自分の生活のスピードに合わせたタイミングで時折ネットを使う、加速度0の使い方をするままなのではないかと予測している。
 ここでのユーザの情報処理とは、ユーザがある情報を受け取ってそれへのレスポンスを返すまでの過程のことを指している。そして加速度とは、その情報処理の速度に対するものだ。
 とりあえず現状としてネットは、そのユーザのほとんどが自分の生活のスピードに合わせたタイミングで時折使うだけ、というのは間違いないと思う。少なくとも、私のようにネットに生活の速度だけでなく飯のタネ(バイトだが)まで左右されている人間は少数派であるだろう。
 なぜこの現状が続き、ネットは生活に飲み込まれてしまうのか?その根拠は二つある。
 まず一つ目は、生活というのは意外と重いということだ。仕事中や授業中にネットをみることは基本的に許されない。家に帰ってからも、食事や入浴といった時間にまでネットをすることはまずない。そしてネットのためにそれらの生活時間を左右する、ということは多くの場合あり得ないし、それはこれからも変わらないだろう。
 そして二つ目は、ネットは人間に取って広すぎるということだ。これは私の経験論だが、ネットユーザがWeb上で見るサイトというのはある程度固定されている。大抵のユーザは自分が興味を持っているものしかネットで見ない。そして、ネットのコミュニティも固定化されている。似たような者同士しか集まらず、煮詰まっていく。その中では、自分が見ているネットの世界が標準的なネットの世界だと非常に錯覚しやすい。異なった指向を持つコミュニティは、ネット外の世界では物理的、偶然的要素によって接触する可能性がある。しかしネット内の世界では、そうした要素が排除されているため指向が異なるコミュニティ同士の接触というのは非常に起き難い。何が言いたいのかというと、今ネットをあまり使わないユーザはそれが当たり前だと思っていて、よっぽどのことがない限りネットのヘビーユーザになることはないだろう、ということだ。
 そうしてネットはゆっくりと、人々の生活に飲み込まれていくだろう。ネットは便利なツール。しかし多くの人にとってその便利さは自分の生活を補助してくれる便利さだ。それ以上の便利さ、ネットの中でネットを便利に使うツールなどはこれからもマイナーであり続けると思う。