なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

機械の仮病感想

 別册文藝春秋2009年5月号掲載、秋田禎信『機械の仮病』を読んだ。初読の感想は、なんか切ない話、と思った。以下、ネタばれ。
 先ほど、ふと気がついた。里越瑞穂は完全に機械になってしまった。機械はモノを考えない。だから彼女は死んだのと変わりのない状態になってしまったのではないかと。非常に短絡な読み方であるかもしれないが。SSMGの日記のmegyumiさんが http://d.hatena.ne.jp/megyumi/20090410/p5 で指摘されているように、この機械化というのは『エンジェル・ハウリング』の硝化の変奏であるのだろう。
 しかしエンハウでは硝化した人間はもう人ではないと断じられていたのに対して、今作では体が完全に機械化してしまっても本当は生きていたのでは?と問いかけている。人≠生きるであるだけなのかもしれないが、これは秋田氏の変節なのでは無いのだろうか?それとも、モノを考えない機械になったとしても、それが人のカタチをしているということだけで人はそこに人の心を見いだしてしまう悲しさを描いたのだろうか?
 人工知能と人の心は等価なのか?という問いには既に答えが出ていると私は考えている。等価だ。なぜならば、心というのは他の人の心であっても自分の中に見いだされるものであると思っているからだ。だから、それがプログラムであっても生理現象であっても自分が『心』だと感じたのならば、それは等しく心である。いきなり人工知能に飛ばなくても、動物の心について考えてみると分かりやすいかもしれない。逆に言えば、たとえ人の心でも自分がそれを心だと認識することが出来なければ、その人の心は存在しない。非人道的な行為というのは、他の人の心を自分の心と等価だと認識できなかった人間が起こすものだ。
 ならばヒトガタと人は等価なのか?それを考えさせられた作品だった。先にも書いたが、人のカタチをしているというだけでそこに人の心を見いだしてしまうことはあり得ると思う。人の心は自分が見いだすことによって初めて現れるものだという私の考えからするとなおさらだ。ましてや里越瑞穂は人のカタチをしているというだけではなく、人として振る舞い、誰もそこに心の不在を疑わなかった存在だ。最後の佐古下の疑問はもっともなものだ。むしろ佐古下しかそうした疑いを持たず、火葬にかけられてしまった里越瑞穂を哀れに感じる。
 機械の仮病は連作だということで、この設定のもと次にどんな物語が語られ、そしてどんな問いかけを感じることができるのか、非常に楽しみだ。