輪るピングドラムと写実と記号

 輪るピングドラムは合う人と合わない人がいると思う。それは恐らく記号的で若年世代的な描写を受け入れられるかどうかで決まるのではないだろうか?
 今の壮年世代は恐らく写実的な表現と親和性が高いだろう。そう思う根拠はビッグコミックに連載しているマンガや昭和期の小説で用いられている描写法が写実的であるからだ。彼らは『現実』に囲まれて育った。その現実を忠実に描写した写実こそが壮年世代にとってのリアリティなのだ。
 一方の若年世代は記号的な描写と親和性が高いであろう。彼らは『仮想』に囲まれて育った。だから仮想を描写した記号こそが若年世代にとってのリアリティだ。余談だが、最近の邦画や国内ドラマは非常に漫画的な描写を取り入れている。ドラマ版謎解きはディナーのあとでリア充の末っ子と一緒に見てびっくりした。記号的描写というのはもはやオタクだけのものでも演劇界のだけのものでもないみたいだ。
 さて、壮年世代からしてみたら若年世代の記号的描写がいかにも薄っぺらい、リアリティがないものに見えるだろう。逆に若年世代からしてみたら、写実的な描写を見てもそこに表現されているものを読み取れないだろう。これが今一番大きな世代間の断絶ではないだろうか?
 幾原監督はインタビューなどで「世代間の断絶を埋める話にしたい」と語っていたと聞く。この作品については製作者の意図とか考えずに見たいと思っているのでそれらの記事を読んだりしておらず不正確で申し訳ないが。輪るピングドラムは物語の重要なテーマに家族があるとは思うが、しかし物語の中の壮年世代は一貫して若年世代からの視点でしか語られていない。とすると、断絶を埋めるために両世代を互いに歩み寄らせるのではなく、若年世代に働きかけてどうにかするという手法をとっているのだと思われる。
 ではその手法はどういったものなのか?それは『記号を用いて写実をする』というものだと考えている。
 記号というのは物事を単純化するための非常に便利なツールだ。けれども輪るピングドラムは記号が画面中に敷き詰められていて、単純化のツールとして使っているとはとても思えない。では記号を何のために使っているのかというと、登場人物の心を写実的に表現するために使っているのではないだろうか?
 何度も言うが、記号は単純化のためのツールだ。その記号は○○系キャラクターや属性という形で人の心までも単純化してしてしまう、恐ろしいツールだ。ならばということで幾原監督は記号を最大限に活用することによって登場人物の心を複雑に写実的に表現することに挑戦したのではないだろうか?
 そしてその試みは成功していると感じる。私は輪るピングドラムの登場人物たちに湿り気を感じるのだ。なんだか心が『ぬるり』としているように感じるのだ。だから彼ら彼女らは、容易に心の奥底まで届く。

 壮年世代と若年世代は、リアルを感じられる描写の質の違いから互いの心を理解し合うことができず断絶してしまった。特に若年世代を支配する記号は未熟で、世界のすべてを表現し切る力がない。このままだと両者の住む世界までまるで違ったものになってしまう。けれども若年世代に今から写実のリアリティを教え込むことはできない。
 ならば、記号を徹底的に使って表現できる世界を広げよう。そうすることで壮年世代と若年世代の世界の広さをなるべく同じものにしよう。輪るピングドラムは物語のために描写がある作品ではなくその逆、描写のために物語がある作品なのかもしれない。