体験を通して普遍を語る

 私は普遍的なものごとに興味がある。真理に興味があると言い換えてもいい。だから、大学は哲学科か心理学科に進もうなんて高校入りたての頃は思っていた。結局は紆余曲折あって理系の情報系学科に進むことになったのだが、それでも私の興味関心が普遍的なものごとから大きく外れたわけではない。

 そして私の考え方は、演繹的な考え方である。自分の体験などを通じて普遍性を探していくのだ。

 しかし、この考え方は良くない。出てくる答えは結局、「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前の中ではな」でしかないからだ。

 だが一方で、体験を伴わない真理になんの意味があろう?とも思う。そもそも、体験を伴わずに真理に接したとして、それが真理だと理解出来るのだろうか?

 つまりは、自分が真理だと、普遍性があると思ったことは自分の経験に根ざしたものでしかなく、逆に真理ではない場合がほとんどだと言える。

 自分はそんなレトリックにとらわれているのだから、普遍性を探すことにどれだけの意味があるのだろう?けれども、普遍的なものごとを見つけたと思った時、私は「安心」するのだ。

 その安心がどのような心の働きからやってくるものなのかはわからない。それでも私は安心のために真理探しをしてしまう。

 だからこそ、常に自分に「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前の中ではな」と言い聞かせなければならないと思うのだ。安易に自分の体験から普遍性を語ろうとしてしまうことへの戒めとして。