こどものせかいはやわらかい

 自らを省みるに、子どもの頃の世界というのは柔らかくて曖昧な世界だったな、と思う。

 よく、痛いことの代名詞として言われる中二病があるけれど、私も御多分に洩れず中二病だったな、と思う。と言うよりも、中学二年生くらいだった頃はまだ世界が固まりきっていなかったな、と思うのだ。

 例えば、霊能力があるという友人の言葉を半分くらいは真に受けていた。そんなものはないと大人たちは言うけれど、でも本当はあるんじゃないか、って真剣に考えていた。そして同時に不安にもなっていた。「どこまでが本当の世界かわからない」と。そうした不安というかある種の恐怖は、経験が足りないゆえに世界の境界が曖昧だったからこそ感じるものだったのだろうと思う。

 それと同時に中二病っていうのは、大人になって振り返ればなんでそんなものを信じた言動をしてたのかわからなくってただひたすらに自分を痛く感じるけれども、でも当時のことを真剣に思いだしてみると、自分の世界の境界が曖昧で、その分超能力から異世界やとにかく自分はすごいという全能感などといったありとあらゆる可能性を世界に感じることができていた時間なのではないのかな、と思うのだ。

 世界に対する恐怖と全能感、全く違うベクトルのこれらは、しかしその源は世界の境界の曖昧さというもので同一であると考える。世界が曖昧だからこそ、怖い。世界が曖昧だからこそ、なんでもできる気がする。

 今、子どもの頃よりは長い時間を生きてきていると、経験が世界の境界を固めたのだと思う。霊能力はない。そんなものを経験したことがないから。自分はすごい人間じゃない。そんな大した経験は積んでいないから。でもその分、世界はくっきりと安定している。

 私は時間が過ぎ経験を積むことにより、曖昧で良くも悪くもあらゆる可能性があった世界の境界を固め、可能性は狭まったけれども安定はしている世界を手に入れた。

 それが良かったのか悪かったのかはわからない。

 けれども、ここに来るまでに曖昧な世界を通る必要は確実にあった。あの頃世界の境界がわからなかった自分は、とても不安定で、でも可能性に満ちていた。それはきっと幸せな子ども時代の一つの形でもあったのだと思う。