なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

自分は醜いと言い訳をしたかった

 私はちょっと前まで、自分は醜いと思っていた。それは外見の話だけでなく、心の器量も含めてだ。

 色々とあってそのような考え方から逃げることができたのだけれど、なぜ自分を醜いと思っていたのか考えてみたら、意外な答えが見えてきた。自分は醜いということを言い訳に使っていたのだ。

 自分は醜いから人生うまくいかないのだとか、自分の醜さに気づいている分私はマシな人間だとか、とにかく醜い自分というのを勝手な言い訳に使っていた。

 じゃあ自分の美しさに気がついたからそう思わなくなったのか?と言うと、そうではない。自分を批判的に評価するのを止めただけだ。

 それだけだから、私は実際のところ醜い人間なのかもしれない。けれども、そう思わなくなっただけで、醜さを言い訳にしていた頃よりもずっと心が軽くなった。言い訳って普通自分の心を(どんな手段ででも)守るためのものなのに。

 結局、自己承認が出来るようになったというところにこの話は落ち着くのかもしれない。けれども結果だけ見ると、自分を醜いと思うことには何のメリットもなかった。

 そして今となっては、私に対して私は醜いという意識を植え付けたなにものかへの恨みも、すっかり消えてしまったのである。

感情メタ禁止。

 最近自分に課した決まり事として、感情メタ禁止というものがある。

 今自分はこう感じたけれども、それには実は別の意味があってそちらのほうが本音なのでは?と考えることを禁止するのだ。

 例えば、私は今喜んでいるけれどそれは他人に対する優越感から生まれた感情だから私は醜い、などと考えることを止める。

 感情メタというのは怖い。自分が感じたことに対して常に批判的な自分を心の中に飼うということなのだから。自分を否定しかしてこない他人と接するのはとてもストレスだが、そういう他人を心の中に持つのはもっとストレスだ。普通の他人に否定されるならその人から逃げればいい話だけれど、心の中にそれがいると逃げることが出来ない。

 だから、私は今喜んでいるのだという感情を素直に受け入れて、それを評価しないように心がけるようにした。

 そうすると、今まで持っていてずっと悩みの種だった、自分を否定する過剰な自意識から逃げ出すことが出来たように思う。

自分の世界を作るもの

 自分の世界を作るものは何なのか、意識していないと間違えるものがあるよな、と時々思う。

 例えば、「賢い人は常に落ち着いて話す」という実感があるとして、それは真であると考える前に、自分は常に落ち着いて話す人を賢い人と認識してるのではないか?と考える必要がある。

 自分の世界というのは自分というフィルタを通してのみ形作られるもので、そのこと自体はとても尊い。だから、「賢い人は常に落ち着いて話す」という命題を真にする世界を作ってもいい。

 けれども、その命題を真たらしめているのは『事実』ではなく『認識』だということを間違えてはならないと思うのだ。