なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

ネットワークと社会の未来

 昨日のSBM研究会の休み時間に、某方と雑談させていただいた。その時に私は半分雑談半分本気で、ネットワークの将来がオープンなものになって行くのかクローズドなものになって行くのか興味がある、森博嗣のSF作品、女王の百年密室なんかではクローズドなネットワークを持った未来が描かれているが、という風に話をふってみた。どうやらその方も森博嗣のSF作品を読んでいたらしく、あの人はそういう思想の人だからね、と返答して下さった。
 そう、女王の百年密室をはじめとする女王シリーズでは、徹底的にプライバシー保護された未来が描かれている。今から約100年後を舞台とした女王シリーズでは、個人の性別ですら非常にデリケートなプライバシー情報なのだ。そして同時に、人類自体もクローズドなコミュニティに帰着してしまっている。主人公のサエバミチルが住んでいる街などは違うのかもしれないが、少なくともミチルが訪れる街はいずれも閉鎖的なコミュニティだ。
 そしてその方との話は、今ネットワークに積極的に関わっている人たちはみんな自分をオープンにしているように見えるが、それが果たして他の人々にとってもそうであるものなのか?というところで終わった。本当にただの軽い雑談ではあったのだが、森博嗣は人間のコミュニティ自体もクローズドなものになる未来を描いている、というその方の指摘は非常に興味深かった。それは、私が先日弟とした話に繋がるものであったからだ。


 私の弟はパソコンは持っているものの、インターネットには繋いでいない。情報収集もコミュニケーションも、携帯があれば、そしてたまに友達のネットを使わせてもらえば十分だと考えているかららしい。私なんかはよく弟に、ネット引けよと勧めるのだが、その度にそんな必要感じないと返されてしまう。そんな弟はネットにある種の偏見を持っていて、先日の秋葉原の通り魔事件もネットによって人間として持っているべき価値観が崩れてしまったから起きたものだと主張していた。そこでネット信者の私としては反論した。非常に拙い反論であり弟の突っ込みを多数受けたが、最終的にその反論は次のようなものに収束した。人のものごとに対する価値観というのは今までは所属しているコミュニティによって定義されてきたものであり、そのコミュニティの価値観から外れた価値観を持った異端者は断罪されるしかなかった。しかし今はインターネットができ、そうした『異端者』も仲間を見つけられる可能性を、自分が異端ではないコミュニティを見つけられる可能性が出てきた。そもそも人がものごとに対して持っている価値観というのは、本当にコミュニティに根ざしたものなのか?本当は個人に根ざしたものであり、ネットワークは今まで所属しているコミュニティによって縛られていた価値観を解体し、その個人に根ざした価値観を元にコミュニティを形成し直す役割を持って行くのではないか?そして秋葉原通り魔事件の犯人も、そうした自分が所属できるコミュニティを見つけられていたら凶行には及ばなかったのではないか?と。
 そうしたら弟にはこう反論された。そんなことが起きたら犯罪者ばかりのコミュニティが出来て危ない。それにコミュニティが形成され直したとするとまたそこでコミュニティ間の戦争が起こるのではないか?人は自分と違う価値観を持ったものを認められない。だからコミュニティが新しく出来た分だけ戦争が起こるのではないのか?と。
 この弟の反論に対して思わず反射的に次のような反論をした。ネットワーク経由で出来たコミュニティなんだから争いが起きたとしてもせいぜい論戦程度。そして、そうして出来た新しいコミュニティは他のコミュニティを認めない代わりにかかわり合いになろうともせずクローズドなものになっていって、そもそもコミュニティ間の争い自体起きないのではないか?と。
 反射的に前述のようなことを弟に話しながら、私は不思議に思っていた。私自身はネットワーク上の情報は基本的にオープンになって行った方が面白いしこの先もそうなって行くだろうと考えているのに、どうしてこの先人類のコミュニティはクローズドなものになって行くという結論が弟との話で出てしまったのだろうかと。
 そしてここが、森博嗣が描いた未来へ、昨日の話で指摘された点へとつながってくる。


 私自身はネットワーク上のデータはオープンになっている方が面白いと考えていた。しかし、当然ながらそのオープンになるべき情報には個人のクレジットカードの暗証番号などは含まれていない。つまり、ネットワーク上にはオープンにした方が面白い情報とクローズドにすべき情報がある、というのが私の正確な立ち位置になる。一方、自分の情報は全てネットワーク上に晒したくないという方もいるだろう。そこで、価値観の異なる二者が生まれる。こうした価値観が異なるものはネット上では当然別コミュニティに所属しているだろう。私ははてなmixitwitterなどに、そして後者の方はそもそもネット上にいない。全くの別コミュニティである。そして私と後者の方のあいだには、さらに私のまだ先にも、自分の情報をオープンにすることをどこまで許容できるかといった価値観によるコミュニティが、というより、クラスタと言った方がいいだろうか?とにかく、そんなものが出来ている。
 よくよく考えてみると、情報はクローズドなものであることがデフォルトなのが正しい。そうしたクローズドであるべき情報をどこまでオープンにして行くか?というのは基本的に個人の裁量に任せるのがあるべき姿だ。そしてコミュニティはそのオープンにされた、あるいはされなかった情報を元に作られて行くことになる。同時に、違うコミュニティに所属する人々は互いに、自分たちの価値観が干渉されない代わりに他のコミュニティの価値観にも干渉しない、むしろ他のコミュニティの存在を知ることすらない、そんな静かな未来がこれから作られて行くのではないのだろうか?そしてそんな他のコミュニティすら見えなくなるような未来への礎が既にあるからこそ、私のような人間は『これからネットワークはオープンなものになって行くのか?それともクローズドなものになって行くのか?』などという、あえて言ってしまうならば愚問を抱えてしまうのではないだろうか?冷静に自分の所属しているもの以外のコミュニティを見ようとするなら、ネットワークはクローズドであるのがデフォルトなのが正しいとすぐに分かるはずなのに。


 ただしこれらのネットワークと社会の未来像は、資源問題を抱えていないコミュニティがサブコミュニティを作る、という条件のときのみ成立するものである。現代日本がこのまま他国から安定して資源収入を得続けて行けるなら、今まで述べてきたようなネットワークと社会の未来を迎えるだろう。けれども、資源問題を抱えている世界というのはまだまだあり、そうした世界では争いが今も続いている。資源問題を自分たちで解決できない場合は、他者から奪うしかないのだから。そして集団として他者と争うときにはコミュニティ自体を大きくし、その内の価値観を統一する必要がある。個人の持つ価値観に根ざしてコミュニティを構築する、などと悠長なことは言っていられない。だから、世界全体がクローズドなネットワークで構成された、互いにかかわり合うことのない閉鎖的なコミュニティを持った穏やかな未来を迎える日は来ないのではないだろうか?
 そう、女王シリーズで一つだけ現代の世界と地続きになっていないところがある。それは、女王シリーズで描かれている未来ではエネルギー問題が解決しているのだ。どんな解決法かは描かれていない。ただ、エネルギー問題が解決された世界とだけ記されている。