なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

「チラシの裏に書け」

 書くということは、時に自分を説得するということでもあるのだな、とふと思った。何かを書くからには伝えたい何かがあるわけで、その伝えたい何かというのは自分の中で確固としてカタチになっているものばかりではなく、書く、ということを通してカタチになるものもある。そしてそんな何かは、時に自分を説得するためにどうしても必要だったりするのだ。
 自分の中に曖昧模糊としてはっきりしない考えがある。その考えをとりあえずカタチにする。○○は××である、というように。そしてなぜならば、と続けていく。その『なぜならば』が重要で、これは最初にたてた命題に対しなぜそんなことを思ったのか?ということを自分でも確認していく作業だ。というより、最初の命題が正しいことを自分に納得させる、自分を説得する、そんな作業だ。なぜならば、最初にたてた命題は曖昧模糊とした考えをとりあえずカタチにしてみただけのものであり、直感というよりほかないものだ。その直感だけをきいて納得する人はいない。自分ですら、その考えの証明が必要なのだ。その証明が欲しいから、書くという行為を通してカタチにする。カタチにすることで、最初の曖昧模糊とした考えがクリアになる。そして、自分が正しいと信じられるようになる。
 そこに欺瞞がある。自分が正しいと信じ込んでしまう、そんな欺瞞が。
 自分の書いたモノを世に問うことは、その欺瞞に自覚的であって初めて意味をなす。もしくは、それを世に問うことでその欺瞞に気付けたのならば意味を得られる。もしそうではなかった場合、仮に最初は良い評価を世から得られたとしてもいずれ燻るだけになってしまうだろう。宗教家ならまた違った結果になるのかもしれないが。
 そして、自分の書いたモノを世に問うことの意味を良く考えなければならない。自分の書いたモノを世に問うことによる利点は、自己欺瞞を引きはがされることにこそある。それは痛いことだ。その痛みを知っているからこそ、匿名でモノを書く人がいる。その痛みを知っているからこそ、実名でモノを書くことにこだわる人がいる。その痛みを知っているからこそ、黙して語らない人がいる。
 今はWebのおかげで誰しも簡単に自分の書いたモノを世に問えるようになった。そんな時代になったからこそ、「チラシの裏に書け」という言葉は至言である。