なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

オカルトとブラックボックス化した技術

 私は割とオカルト話が好きです。そうしたものを信じているか否かと訊かれたら、信じていると答えます。だからこそ、肝試しはしないしおまじないもしません。
 オカルト話は主に2ちゃんのオカルト板の名物スレッド、『死ぬ程洒落にならない話を集めてみない?』通称洒落怖のまとめサイトを読んでいます。
 オカルトというのはなんの科学的根拠がないものを指し示す言葉だと思うのですが、しかしいくつも話を読んでみると、確かに根拠がわからないこの世界にも、何らかのルールがあるらしい、と思うようになってきました。様々な話に共通する、怪異から逃れるすべとして以下のものが挙げられます。

  • 見てはいけない
  • 返事をしてはいけない
  • 扉を開けてはいけない
  • 塩とお酒を置く、身につける

 特に不思議なのが『扉』の話です。例えば八尺様のお話など、地元の方に古くから言い伝えられており相当強い力を持っていると推測できる怪異ですら、扉を開けるのは容易なことではないらしいのです。というか、扉を通らなければ家の中に入れないらしいのが不思議です。
 さて、ここで古代の話を思い出してみましょう。古代に残る文献には人を脅かす怪異についての記述が数多く見られます。この怪異を人はただ恐れていただけだったのでしょうか?否、人はこれらの怪異から身を守るために様々な方法を提案し、伝えてきました。今では根拠のないオカルトだと断じられるようになってしまいましたが、本当にそれらにはなんの根拠もなかったのでしょうか?そして、そうした怪異が恐れられている時代に人が安心して暮らすために建てる家、それに怪異を遠ざけるための工夫が一切考慮されていないということはあり得るのでしょうか?
 私は、『扉』こそが最も古く一般化した工夫なのではないかと思うのです。しかし、その意味や原理は今では忘れられブラックボックスと化してしまったのではないかと。
 そう思う根拠はそれこそカンでしかありません。けれども、『高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない』という言葉がありますが、もしそんな時代が本当にきたとしてその『魔法』を使う一般の人達のうち一体何割がその『魔法』の根拠を理解しているのでしょう?そもそもそれが『魔法』であることを認識出来るでしょうか?実は今オカルトと呼ばれているものが、既に『魔法』と化してしまった現代とは全く異なる科学技術を元にしているものなのではないか?そんな事を夢想するのです。
 科学は科学、一つのもので決してオカルトとは相容れない、そう思う方もいらっしゃるでしょう。しかし科学とは一体どういう理屈でその確実性を保証されているのかと考えると、人間の認識の世界を避けて通るわけにはいかなくなると思います。そして、人間の認識というのは本当の意味で共有することは一切出来ない。そうすると、自分とは違った世界を認識している他者がいる可能性を否定できません。その他者が打ち立てる科学体系は当然自分とは違ったものになるでしょう。
 まぁなんかグダグダ書きましたが、オカルトにも実は理屈があって、その理屈は既にロストテクノロジー化してんのかも、なんて思いついたという与太話でした。