なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

土地に根ざして生きるということ

 私は田舎にある新興住宅地に住んでいる。ご近所の方々はほとんど、高度成長期に京葉工業地帯に職を求め、日本各地から移り住んできた人だ。この新参者たちと古くからこの土地に住んでいる方々の間にトラブルがあったとは聞いたことがない。その代わり、交流があるとも聞かない。
 ここは田舎の佇まいを残した土地だ。どのくらいかというと、新参者の子供でも家の構えや苗字、住んでいる場所から、どの家が『特別』なのかわかるくらいに。
 子供の頃は、この田舎が嫌いだった。小学校までは歩いて一時間弱かかる。お店はない。それに子供なのに、新興住宅地に住んでいたのにこんなことを思うのは明らかにおかしいのだが、田舎のお互いを監視し合うような人間関係が嫌だ、と思っていた。具体的なエピソードは何も無いのに。まぁ、背伸びしたがりな上思い込みの激しい子供だったな、と思う。
 そして大学進学を機に一度この土地を離れた。憧れていた都会に移り住んだ。見渡すかぎり建物で埋め尽くされた土地に住んで、都会人は勤め先を都会と思っていることはあっても、自分の住んでいる場所を都会と思うことはないらしいということに気づいた。同時に、「この程度か」とも思った。東京のような世界有数の大都市であっても、内側から眺めてしまえば地方都市と大差ない。結局のところ、自分の視界から離れたものを意識に組み込むのは難しいのだ。自分の視界が建物で埋め尽くされていたらそこは街であり、そうでなければ田舎。その街が都市なのか大都市なのかを意識する目を持つ人は少ないだろう。
 憧れていたはずの都会で、私は宙に浮いたような暮らしをし、そして空中分解をして実家に帰った。今はこの土地にずっと住んでいたいと思っている。
 こちらに帰ってきてしばらくたった頃、不思議な夢をみた。悪夢だったのだが、何故か夢が始まったとき、この夢はループする悪夢だと直感した。あるものに呪われ、悪いことが次々と起こっていく。それを解決するため私はあれこれとし、しかし最後にそのあるものが私の手元に残って、すべては無駄だみたいなことを言った。けれどもその時、通学路の途中にあった名も知らない小さな神社が現れ、私は手にあった呪いの元凶をそのお社に放り込んだ。そして、ループするはずだった悪夢は終わったのだ。
 その夢をみた翌日、その神社に手を合わせに行った。それからもその神社がことあるごとに気に掛かり、折にふれて手を合わせ、お供え物をしたりもした。何度か通って気づいたが、賽銭箱も鈴鐘もない神社だけれどもこまめに掃除されているらしく、境内はいつも綺麗だったし、お供えしたお酒も神棚にあげていただいていた。この神社をお手入れしている方にお話を聞きたい、そうは思っていたがつても何も無い。ただ手を合わせる日々が続いた。
 参拝はいつも仕事の帰り道に行く。仕事場から家に帰る時は二つの道があり、普段通る道の方にその神社がある。ある日なんとなく、いつもは通らない道のほうを選んで帰ろうと思った。そしてその道の入口の方まで行ったのだが何故か妙に気が重く、わざわざ引き返していつもの道で帰ることにした。この時点で妙な予感があった。いつもの神社の神様に呼ばれているのかもしれない。何の根拠もなくそう思い、参道が見えるところまでたどり着いたとき、それは確信に変わった。参道の下に車が止まっており、鳥居のしめ縄が新しくなっている。この上に私の疑問に答えられる方がいる。緊張しながら鳥居に一礼をし、参道を登った。
 参道を登り切るとそこには、いつも閉ざされているお社が開かれ、その中でお酒とおつまみをつまんで談笑されている方々がいた。私から声をかけるまでもなくその方々は嬉しそうに私を招き、歓待してくださった。
 私は新参の住宅地に住むKZEだと自己紹介をし、お話を伺った。ちょうどその日はこの神社の秋祭りだということで、昔からこの神社を祀っている家の方々が集まっていたらしい。周りの神社は年に一回しか祭りをやらなくなってしまったが、うちのところは年二回、昔どおりに春祭りと秋祭りをし、その祭りのたびに神主さんを呼んで神様をお祭りしているとおっしゃっていた。そして私の方からは、私がこちらの神社に参拝することになった経緯を話し、たまにではあるがお供えもさせてもらっていると言った。先方でも時折あったお供えが誰からのものだったのか不思議に思っていたらしく、合点がいったとおっしゃっていた。
 私の見た夢については、やっぱり訳が分からなかった。元からこの土地に住んでいたわけでもなく、今住んでいるところもこのお社がある集落とは別のところだ。それなのになぜこのお社が夢に出てきたのか?それは誰にも分からなかったが、みなさんは「ご利益のある神社だってことだ」と笑っておられた。
 そこには、私が全く知らなかった時間が流れていた。何代にもわたって一つ所に住み、土地と神様を大事にし、穏やかに笑う方々。もちろん私から見える範囲がそうしたものだというだけで、子供の私があると信じ込んでいた田舎の嫌なところというのもあるだろう。それは分かっているのだけれど、この方々が妙に羨ましくなった。
 この日から土地と神様について、時折考えるようになった。土地というのはきっと私が今まで思っていたよりもずっとずっと大切なモノなのだ。その土地にずっと暮らしてきたということは、その土地にずっと暮らせるように手を入れ保ってきたということだ。一代二代の話ではなく、何代も重ねて。その財産のなんと尊く、豊かなものか。私はご先祖さまに顔向けが出来ないという慣用句に大した重みを感じないが、しかしこうした方々は全く違うものを感じるだろう。神様のことだって、ずっとずっと身近に感じていらっしゃるはずだ。私にとって土地の言い伝えは単にお伽話だが、これを歴史だと感じていらっしゃる方々なのだろうから。
 自分の世界は自分が生まれたときに始まり、そして自分が死んだら全て消えてしまう。ずっとそう思っていた。自分が生まれる前からずっとあって、自分が死んだあとにもずっと続くものに想いを寄せるのは無意味だと思っていた。けれども今、そんな考えこそが無意味だと思う。きっとこの世界はずっとあってずっと続くのだ、それは自分には分からないけどきっとそうなのだ、そう思う方がなんだか嬉しい。だからこそ、人生に価値を見いだせると思う。
 人は大地から離れて生きてはいけない。有名なアニメのセリフだが、今の私には以前と全く違った響きに聞こえる。