なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

例え話は危険だということを語る危険なエントリ

 ものごとに対する理解が一致すれば、そのものごとに対する見解も一致する、と無邪気に考えておりましたが、そんなこともないのだなぁ、ととあるトゥギャられたツイートを見て思い直しました。もしくは理解が一致したというのが幻想なのか。

 もし、ものごとに対する理解と見解に相関関係があるとしたら、例え話って邪悪に使えるんですよね。人の理解の方向を誘導して、自分の思わせたいような見解を持たせることができるということで。例えば、例えばですよ、とある人にはいつどんなタイミングで話しかけられるのかわからないことを形容するのに『あの人に話しかけられるのは、まるで通り魔に逢う様なものだ』と言われた時、『あの人』には悪いイメージがついてしまいますよね。
 数式みたいに厳密な定義ができる分野で例え話を使うなら、例え話で大まかな理解をしてから厳密な定義に当たればいいですし、その方が理解のスピードは早いと思いますが、人文分野での例え話は怖いよなぁ、と思います。そもそも同じ例えでも理解の方向が180度異なることもありますし。例えば、例えばですよ、旧日本軍の様な組織、と言ったときに右翼と左翼では連想するものが違うでしょう。

 さて、こんな話を書いているのに例え話からは離れられない、というのがとても複雑な気分になります。でも、例え話が無いよりもわかりやすかったでしょう?けれども、その理解があなたに『例え話は危険だ』という見解を無検証のまま持たせていたとしたら、それこそが危険なことなのです。
 そこから導き出される私の結論はありますが、読者の皆様には私の結論は必要ないでしょう。だから、この文章はここで終わります。