なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

人が人を人だと思うために

 人間の定義を問う創作物は多い。最近だとAIものなんかが目立つだろう。何を以って人間らしさとするのかは誰しもが考えたことがあるのではないだろうか?特に深く考え込まなくても、あの人は冷たくて人間らしくないなぁ、なんてことくらいは考えたことがあるのでは?

 そして思うのは、人間の定義というのは人それぞれに違っていて、その人が人だと思う人が人、としか言いようがないのではないかということだ。普遍的な人間の定義というものはない気がしている。だからこそ誰もが考えることなのではないかと思っているのだが。

 で、私にとっての人間の定義というのは、社会につながっている人、である。これは”社会につながっていない人”を排除するための定義ではない。社会につながっていない人などいない、どんな人も他の人とのつながりを何かしら持っていて、その全体が社会と定義されている、というのが私の考えだ。

 では、なぜこのような定義を私は採用したのか?という話であるが、最初は人として生まれたなら人だと考えていた。けれども人として生まれるということは遺伝的に人間であるというものにつながっていくが、人間と見なされる遺伝子というのはどのようなものなのかという問題が出てくる。私達一人一人の遺伝子は異なるものであるが、理想的な人間の遺伝子があってそこから何%のブレの範疇なら人間、とでも考えればいいのか?などと思うにあたって、この出生を基準にして人間性を考えることには無理があるのではと思い至った。ここから先はSF的だが、将来遺伝子を書き換える医療を受けた人はどこまでの書き換えなら人間と呼べる範疇に収まるのか?などとも考えた。

 そして、社会につながっている人、という私なりの定義についても考えてみた。とすると、次は社会性があるかどうかが人であるかどうかにつながると演繹できる。しかし、社会性というのは何なのか?これを人とコミュニケーションを取る能力、と考えるとうまくいかない。そう考えてしまうと、健康上の問題などで人とコミュニケーションを取れなくなってしまった時点で人間ではなくなってしまう。私は人とコミュニケーションを取れない状態にある人であっても、誰かが知っている人ならば人だと思うのだ。つまり社会性というのは誰かにその人がいることを知られている状態にあるのではないかと考える。思考実験として、ジャングル・ブックの主人公は誰にもその存在を知られていない人間であるが、彼は人だろうか?私は獣なのではないかと思う。だが、人にその存在を知られた時点で彼は人間性を獲得するだろう。

 私の人間の定義は随分と独自解釈が入った、七面倒くさい定義である。そうした考えを持ったことはここに表明するが、誰かにこれを押し付けるつもりはない。

 つもりはないが、人の定義を社会性に求めたからには避けられない問題がある。それは、社会は何を以って人を人と定義するのか?というものだ。社会というのは人の集合であるわけだから、私たちが人を人とみなすための定義が必要とされる。つまりそれは人々の間の普遍的な人間の定義が必要ということである。そして最初に述べた通り、それは案外難しい問題である。例えば、私と神奈川大量殺人事件の犯人の人間の定義には明らかに差があるし、この文章を読んだ人にも私の人間の定義に納得できない人がいるだろう。

 だが、普遍的な人間の定義がもし実現できたとしたら、その時社会は今よりももう少し優しい世界になるように思うのだ。