なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

いじめの構造とネットリンチの構造について

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を読んで考えたことについて。

 一番心に残った言葉は、『やってる側は20人でやっていると責任は1/20、やられてる側は20倍』という言葉である。
 やられてる側は20倍というのも辛いことだが、20人でやっていると責任は1/20というのもまた考えさせられる言葉だ。
 大人数でやればやるほど責任が薄れるのならば、ネットリンチに参加する人が感じる責任感というのはどれほどのものなのだろう?責任感が数万分の1まで薄れるとしたら、自分がいじめをしているという認識すら持てないかもしれない。
 それに加えて、ある意味当たり前のことかもしれないが、いじめている側はいじめられている人の気持ちを何一つ顧みていない。
 思うに、人の気持ちを顧みなくなるには一つの『コツ』がある。その人と1対1で接しなければいいのだ。その人と自分を対等の関係に置かないからこそ、その人の気持ちを顧みなくても何も感じなくなる。いじめが1対多で起こるのは、このことと無関係ではないだろう。
 そして、その人の気持ちを顧みることがなくなるからこそ『こいつには何をしてもいい』と判断するようになる。
 だけど『こいつには何をしてもいい』からといって実際に殺されたりはしないじゃないか、とお考えの方もいるだろう。それは違う。それはいじめのターゲットを思いやる気持ちでブレーキがかかっているのではなく、自己保身でブレーキがかかっているだけだ。それをすると流石に自分に不利益があると計算しているだけで、根本では『こいつには何をしてもいい』と思っているのだ。
  この構図が拡大されたのがネットリンチである。ネットリンチの恐ろしいところは、関わる人数が多すぎるということである。数というのは単純に力だ。その数の力は、いじめられる奴に問題があるという言語道断な理屈を正義に見せかけてしまう。例えば、「あいつは嘘をついたから叩かれてるんだ」といったように。大人数でやればやるほど責任が薄れるどころの話ではない。大人数でやればやるほど正義に似た何かになってしまうのだ。
 その正義に似た何かは、普通の人がネットリンチに参加するハードルを下げてしまう。するとその正義に似た何かがますます正義のような面をするようになってしまう。
 この正義に似た何かに煽られず、ネットリンチに参加しないようにする方法はあるだろうか?私は一つだけ思いつく。
 その方法は、思いやりの心を持つことだ。正義だの何だの関係なく、槍玉に挙げられている人を思いやるだけでいい。
 将来的には、もっとシステム的ににネットリンチが起こらないようにするのが正しいのだろう。けれどもまだそのシステムがない今は、一人一人が思いやりの気持ちを持っていく以外の方法が思いつかない。
 本当は、ネットリンチを起こさないシステムなんて必要とされなければいいのにね。