なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

文系が理転してプログラマになろうとしたけど結局15年ほどかかった話

まぁこんなお題でなんか書いてみようかなと。書き終えてみたら3,000字程の長文になった。

【追記】2020年5月31日に一部補足的な文章を加えました。

高校時代

あまり勉強はしないけれども国語が得意で数学が苦手だったので、高校1年の頃には文系に進もうと心に決めていた。心理学とか哲学とかやって人間について考えたかった(心理学は実はそういう学問ではないらしいとはこの頃はまだ知らなかった)。

でも、転機が訪れる。高校2年生のとき、当時好きだったロスト・ユニバースというラノベのあとがきに相対性理論を崩せる人募集と書かれており、じゃあ相対性理論を勉強してみようと思って高校の図書室にあったニュートンという科学雑誌の特集号を読んでみることにした。

そしたら面白すぎた。本は相当読んでいる方だと思っていたけれど、本の内容が面白くて電車を乗り過ごしたのは初めてのことだった。

なので理転して物理学を学ぼうと思った。でも、実はこの選択が逃げであったのも当時から認識していた。私は国語が得意だと思っていたけれど、その得意なフィールドで大学受験に挑んだらもし失敗した時に辛すぎる。どうせ受験に失敗するなら理系分野の方が自分に言い訳が効く、などという謎の卑屈な精神も手伝って理転を決心したのだ。

しかし、理転するにしても1年次の進路調査票で文系クラスに進みたいと答えており、そのため3年次のクラスが文系になることはもう決まっていた(1年次で保留にしとけば2年次の選択で文系理系選べたんだけどね)。

なので、数学3Cと物理は未履修のまま受験に挑むことになった。そしてそんなに熱心に勉強していたわけではないので(そもそも自分に言い訳するための理転だし)理学部に落ちて浪人することになった。

でも、この浪人になった時は就職氷河期で、高卒で就職しようとしていた友人たちは片っ端からフリーターになった。それを見て、さらに色々と考えたのもあり、手に職をつけて一生働き続けられるようにならないとと思って志望学部を工学部に変更した。そしてその頃はインターネットが一般に普及し始めたところでもあり、それが面白そうだから情報系の学科を目指してプログラマになろうと決めた。

プログラマになって手に職をつけて、結婚してもバリバリ働こう、そう思った。

それから数学3Cと物理を一生懸命勉強した。どちらも予備校の個別指導の先生に見てもらって、記述式の対策をみっちりした。個別指導の学費のためにバイトもしなければならなかったのが辛かったけれど、それは女のお前に学費は用意していないという両親の元に生まれたのがまぁアレだった。これ平成の話ね。あと独学だと勉強できない自分の性格のせいもある。

でもバイトしてるせいで模試はほとんど受けられず、自分の実力がイマイチわからないまま本番に臨むことになった。

しかし合格はした。第一志望の大学の第一志望の学科だった。

大学時代

入学して一人暮らしの生活が始まった。大学では電気回路とか離散数学とかプログラミング演習とか色々やった。特にプログラミング演習や離散数学などの情報系の授業が楽しかった。

さらにバイト先として大学内の情報管理センターに雇ってもらい、そこでUNIXなどに触れ、HTMLやCSSC言語JAVAなども勉強させてもらった。非常に良いバイトだった。

が、残念なことに受験期を抜けてまたそれまでの勉強しないモードに入ってしまい、苦手な電気回路などの授業は聞いているだけでは理解できないのもあって単位をポロポロ落とし始め、更にどんどん毎日がしんどくなっていって、ある日あまりにもしんどくて周りが見えず交通事故に遭いかけたのがきっかけで大学の保健管理センターにある精神科の門を叩いていた。

そこでは数ヶ月単位で時間をかけて診察していただき、最終的には統合失調症だろうという診断結果が下った。

その頃には単位も随分と落としていて、1年の留年では卒業できないくらいになっていた。最低でも2年留年しないと卒業できない。

薬はもらっていたけれど、今思うとあまり効いてはいなかった。常に首を切りたいという妄想にかられ消耗し、起き上がるのすら困難な日もあった。

そんな中なんとか単位を取って卒研に着手しそれを書いて卒業できたが、卒業時には消耗しきっていたので一人暮らしをやめて実家に帰ることにした。

大学卒業後

それから2年くらい引きこもっていた。この頃のことはあまり覚えていない。

ただ、プログラマになって手に職をつけてバリバリ働きたいという入学前の希望からは随分と遠いところに来てしまったのが悲しかった。

それからお寿司屋さんのチェーン店でのパートを始めて少しづつ社会復帰を目指した。2年にならないくらいのところでもう大丈夫だと思ってフルタイムの契約社員に転職したが、そんなに単純な話はなく体調の不良が態度にも出てしまったため、契約満了で辞めることとなった。

ここで仕方ないので障害者手帳を取り、今度は障害者枠で勤め始めることにした。この頃にはもうプログラマになりたいという思いはだいぶ燻っていた。もう30歳ぐらいで職歴もボロボロだし、無理だろうなぁと。そもそも実家を出られるほど体調が良くないため実家から通える範囲の仕事探さねばならないが、それでプログラマの仕事はほとんどなかった。

だから障害者枠の事務仕事を見つけて勤め始めたが、1年とちょっとで体調が悪化し入院するほどになったので辞めることになった。

ただ、この間も暇を見つけてはプログラミングをしたりウェブサイトを作っていたりしていた。スクリーンセーバーを作ったり、画像ダウンローダーを作ったりなどちょくちょく遊んでいた。だから、転職する機会ごとにプログラマになりたいと思ったりしたが、まぁ病気のこともあり諦めがちだったのだ。

そしてもうどん底だなぁというところでTwitterにネガティブをぶつけていたら、大学時代の先輩から助けの声がかかり、それがきっかけで先輩と結婚し、上京することになった。

結婚してから

そして新婚生活は夫は仕事へ、私は就労移行支援事業所へ通うというものになった。また、週一くらいで某社のプログラミング教室にも通い始めた。そんな生活が約2年続いた。プログラミング教室を開いてくれていた某社さんに就職したいと考えることは何度もあったが、もしうまく行かなかったら怖いという卑怯な逃げ心でついぞそれを言い出すことはできなかった。ここで懺悔します。ごめんなさい。 

それから就労移行支援事業所経由で小さな広告会社のウェブ担当の仕事を見つけたが、すぐに子どもができて色々勘定した結果短期間で辞めることにした。出産してからしばらくは夫が育休を取ってくれていたけれど、それが終わったら日中子どもと二人きりの生活だった。そんな中知り合いの方からプログラミングで効率化しないと終わらない類の自宅でできる軽作業の請け負い仕事を紹介していただき、それをこなしたりしていた。それと並行するような形でプログラマの仕事も探していた。

子どもが生まれてから不思議なことに病気も随分良くなり、10数年ぶりにポジティブな気持ちが続いていた。

今度こそプログラマになるのだ、そう思っていた。インターネットは大学受験前に夢見た通り楽しかったし、趣味でやるプログラミングも楽しかったからだ。それに、35歳未経験はもう手遅れかもしれないけれども、もしここで今までみたいに職種にこだわらず見つかった仕事に手をつけたら、本当にプログラマにはもうなれないと思った。

だから何社も受けてはみたが、色々なビハインドがあるせいかなかなかプログラマの仕事には受からなかった。

そうしているうちに、夫の出張についていく形でRubyKaigiに参加したのがきっかけで、知り合いの方からウェブ系の会社の仕事を紹介していただいた。どうも私が書いたQiitaなどを見てくれていたらしい。

そこはとても柔軟な働き方を許容してくれる会社で、子どもがいるから6時間の時短勤務で、さらに持病の様子を見るために週4のアルバイト勤務をお願いしたい、という私の希望を容れてくれた。障害者手帳があっても大丈夫だと。そして職種はプログラマ。運よく子どもを預ける先も見つかり、ここで働くことになった。

まとめ

もう一度言うがこの時点で私は35歳。プログラマを目指して大学に入学したのが19歳の頃のことだから、そこから数えると16年ほどかかってようやくプログラマという職につけることになった。大学卒業時から数えると10年か。

持病のこともありバリバリ働くという感ではないが、それでも憧れた仕事にようやく手が届いた。ちゃんと手に職がつくかはこれからの働き次第だと思うけれども。

頑張ります。